樽美瑞希(たるみ みづき)さん
「悩みながらも進むことを迷わず、導かれてやってきた」十勝・本別町。これからは自分で導かれる人の「場」を創っていきたいと考える樽美瑞希さんの生き方
- インタビュアー
- 地域包括ケア研究所 藤井 雅巳
地域おこし協力隊として、十勝・本別(ほんべつ)町へ導かれるようにしてやってきた樽美さんは、悩みながらもいつも「ワクワク」を大切にして、人生の選択をしてきました。幼少期の原体験から興味をもった「食」の世界。管理栄養士でもある樽美さんは、「食」というキーワードを活かし、地域に新しい「場」をつくって行きたいと、本別で新しいチャレンジに挑んでいます。
樽美瑞希(たるみ みづき)さん
仙台出身、18歳まで仙台で育ち、大学に入るため東日本大震災の年に上京。その後、食品関連会社での勤務を経て、導かれるように十勝へやってきた。現在は本別町の地域おこし協力隊として観光を担当、将来はこの町で様々な人が交わる「場」をつくっていくことを計画中。
「食」への想い、人生を決める「震災」の経験
-はじめまして。お話し伺う上で、今の時点で不思議な点がありすぎてどこから伺おうかと思っていたのですが、まずはどのようなきっかけで、管理栄養士になられたのか伺えますか?
樽美さん(以下「樽美」)
はい。いくつか理由があるんですけど、はじめは病院の管理栄養士になりたいと思っていました。小学4年生の時の父の入院がきっかけで。くも膜下出血で幸い後遺症は無かったのですが、子供ながらにやっぱり食事って体作ってるんだなぁと。
-結局、病院の管理栄養士にはならなかった?
樽美
私、食べるのがとにかく大好きだったんですよね。大学では管理栄養士になるための学科に入ったのですが、実習などの際に、既に病気になった方の食事を考えるっていうことに対して、疑問が湧いてきて。「なってからじゃないよな」って思って。そこから、予防をやりたいと思うようになり、商品開発などの仕事にシフトしてきました。病院の求人も見ましたが、「なんか違うな」と思って。
-確かに。僕も病院にも関わったりするのですが、健康でいるためには、病気にかかる前の方が大切だったりしますよね。
(写真)地域おこし協力隊隊員として、本別町の「食」の特産品をPRする樽美さん
樽美
それと、もう1つの理由は、「震災」です。高校3年生の時でした。ちょうど仙台にいるときでしたが、ちょうど3年生の春休みに「震災」が起こって。だから、仙台を出ることにすごく迷いました。「この地元を置いていくのか、仙台を捨てるのか」という気持ちになって。結果的には、行くことになったのですけど、すごく悩みました。その時ですね。震災で水・電気・ガスが全部止まったときに、「当たり前の食事」でも家族で食卓を囲めるっていうのは、すごい幸せで。あったかいご飯が食べられるって、すごい安心できて。この時に食のありがたみを感じたんですよね。当たり前が全然当たり前じゃないと思って。どんな年代の人でも、性別問わず、国境問わず、みんな食べることに気が付かされて。その時、「食に関わる」ことを生業にしたいなあって、覚悟が決まった感じですね。
-そうなんですね。大震災のような非日常を経て、当たり前のことに気が付く。仙台に残ることも、具体的に考えましたか?
樽美
そうは思わなかったのですが、震災のあった3月中に行くのかって。100%の気持ちで出発できないのに、ここを出ていいかなみたいなところがあって。幸い、実家は被害はそれほどなかったし、親戚では亡くなった方もいなかったですけど、南三陸の友達の家が流されちゃったりとか、身近な場所が遺体安置所になっていることとか、そういうことを身近に聞いてたから、自分だけ、新生活を送っていいのかなということを凄い葛藤しました。
-葛藤のスタートだったんですね。それで、もともとやりたいと思っていたことを実現するために、学校行って。その後、社会人になってからは、どんな感じだったんですか?
「食」を通じて視野が広がった社会人としての経験、食の王国・十勝との出会い
樽美
1社目は、総合食品商社に勤務していたのですが、すごく自由にやらせてもらい、いろんなことを経験させてもらいました。小さな会社だったので、やりたかった商品開発みたいなこともやれて。大げさなことやってたわけじゃないんですけど、骨なし魚の味付けをライフステージごとに考えたり、とか。中でも、楽しかったのは、輸入の仕事ですね。中国から魚・肉や野菜などの輸入をしていて、それが刺激になりました。初めて仕事で海外に行って、これからも何か関わりたいなって思うくらい、中国も好きになっていったんです。いろんな所の食べ物とか食べたり、食べ歩きツアーみたいなのも仕事として面白いなってその時に思ったりもして。
-海外に行くと、視点とか視野とかって変わりますよね。その時が海外は初めてだったんですか?
樽美
初めてではなかったんですけど、仕事で行ったのは初めてで。商談を海外の方とするのは初めてだったので。そういうのは病院にいたら味わえない世界だと感じました。民間企業の方がすごく広がりがあって。食の展示会もスーパーアリーナでやったり、ビックサイトでやったりとか、すごく楽しかった。そういうのも経験して、色々な食品企業があることを知って、やっぱ「食って本当に幅広いなぁ」と、奥深さもその時実感しました。
-その会社で6年ぐらい経験を積まれたのですか?
樽美
いえ。1社目の会社が、倒産してしまって。今だから笑って言いますけど。会社都合で突然次を探すことになって。
2社目は和食材の卸問屋で、商品開発などをやりました。冷凍おせちなどに使われる珍味や高級食材を扱う会社だったんですよね。旅館やホテルなどに卸すようなことが多かったです。
-それはあまり面白くなかった?
樽美
最初は、事務的な受発注などからスタートで、営業的なものとか、商品開発っていうのは数年後先っていう感じだったんですよね。それと、あと女性で活躍されている方がすごく少なくて。業歴が50年くらいの会社だったので、結構古い体質のところもあって。なかなか自分のやりたいことが2社目はできなくて、ちょっともがいているところでした。アピールはしてたんだけど、すごくもどかしくて。
その頃に、現在のパートナーと東京で出会ったんです。
(写真)旧・本別駅の駅舎前で
-あ、なるほど。それで北海道なんですね。
樽美
彼も、もともとは北海道に住んでいたわけではないのです。北海道をヒッチハイクで回る旅をしている時に、帯広の街で出会ったあるおじさんから「男なら道東だ!」って言われたことがきっかけで、「行ってみよう」みたいな感じで十勝に行ったらしいのですが、そのまま十勝がすごく気に入って移住するようになったらしいんですよね。
-「男なら道東」ですか 笑
樽美
彼が十勝に移住した後、東京であった異業種交流会に彼が来てて、そこで偶然出会いました。彼と出会ったことで、北海道に初めて行ってみたんですよ。それで来てみたら、こんなに「空広いんだ」とか、緑の美しさとかに感動して。おいしい食べ物もいっぱいあるし、人もすごくいいなぁと思って。今まで北海道に住みたいとか思ったこともなかったのですが、上京して10年の年で、ちょうど、東京で窮屈なところを感じていた時だったので。思いっきり十勝に魅かれるようになってきました。
自分にあった町・本別町との運命的な出会い
-色々なものがつながって、導かれた感じですね。
樽美
全部、重なっていったというか。それで、移住しようかなと考えた時に、十勝には住みたいけど、帯広ではなかったんですよね。行くなら、あえて都市部にする必要はなかったので。適度な自然の中で住みたいなあっていうのを思っていて。それに、ほどよい人々の距離感が作れそうな町で自分のコミュニティをつくりたいなと。
いくつかの町村を検討したのですが、その中でも本別にすごくピンときて。本別と南三陸も友好関係にあって、震災復興で応援に行ってた話を聞いたり、高橋前町長の昔のルーツが宮城県の鳴子市ってとこだったり。協力隊の面接の時も、土曜日にしか私が行けなかったんですけど、町長や副町長から課長職の方も沢山来てくれて、すごくウェルカムで。「あったかいなぁ」と思って、「ここに住みたい」って、その時に凄く思って。
-僕も、1番初めに本別来たときに、町長や副長やみんなが歓迎してくれて。さらに、二次会の時に偶然に「おやきやTOTTE」で出会った町長の奥さんたち「(本別発)豆ではりきる母さんの会(以下「母さんの会」」の方々も歓迎してくれて。すごい素敵な方で、ほんと「あったかいな」って思いました。
本別発豆ではりきる母さんの会・・・JA女性部の味噌作りサークル「カトレア会」の結成を筆頭に、菓子作り、豆腐作りのサークルが次々に発足。2000年には3つの会が統合し「本別発豆ではりきる母さんの会」が設立
樽美
そうなんですよね。そして、「豆の町」っていうところもすごい惹かれて。やっぱり「食」をやりたいって思っているので、素材としてすごくいいものがあるし。今、協力隊としての主業務である「観光」は間口が広いので。「食」に絡めてもできるので、自分のやりたいこととうまく関連させて、発信したりするのも好きなので。
(写真)本別町のポケモンマンホール「ポケふた」をPRする樽美さん
-本別高校の先生方からも、「協力隊の樽美さんが、すごい動いてる」みたいな話になってました。以前の協力隊の方も存じ上げているんですけど、みんな頑張ってはいるのだと思いますけど、知らない地に来て、そうは言っても結構いろんな制約とかがあって動きにくそうなところも正直あって。でも、樽美さんはその辺を余裕で突き抜けて行けそうだなと感じてます。
樽美
「焦んなくていいよ」って、言っていただけるんですよ。焦っているつもりはないんですけど、色々やりたいことがありすぎて。「地域のために」って肩に力が入りすぎてしまって。でも、「よそ者」だからできることもあるかなと思うので、よそ者の良さを活かしながらも自分がやりたいことやれて、楽しんでいれば、結果として地域のためになるんだって思ってて。そこのバランスに、最初はすごく悩んだんですけど、やっぱり「地域の観光のため」みたいなことを意識しすぎると、自分も疲弊して来ちゃって。自分がやりたいことだって思うと、やっぱり頑張れて楽しくて続くんですよね。せっかく移住してきたので、色々なものにチャレンジしてみたいなと思って。
-やっていいと思います。「協力隊としてほかの地域から移住してきた人が、楽しそうにやってる」ってこと自体が最強の地域の魅力的なコンテンツだと思うんですよね。それでいいんじゃないかなって。そして、ちゃんと大切にしなければいけないものをしっかり心得て関わっていくって精神も、地域に来ると大事だと思う。そのバランスですよね。
「迷いながら進むことを迷わない」、樽美さんの「場」づくりのチャレンジ
-それで、この先とかはどんな感じで考えているのですか?
樽美
移住前に思ってたことと、今いろいろ動く中で見えてきたことと、どんどん増えてきちゃって。自分の中で、「これだ」ということは、まだ絞り込めてないんです。それこそ、地域おこし協力隊で来た人をサポートすることとか、移住支援みたいなのもいいなと思ったりして。でも、拠点というか「場」をつくることをなんとなく考えています。観光客にとっての場だったり、協力隊の場、高校生が放課後の過ごす場、私たちと同じような年代とか、お子さんを持ってる方とか、おじいちゃん、おばあちゃんとかでも。人が集い、ちょっとおしゃべりして、つながって、お互いに安心できるような場所があってもいいなって。
-何かをするためにわざわざ使わなきゃいけない場所はもしかすると色々あるかもしれないけど、何も用はないんだけど、なんとなく人が普通にいて、でも何かやりたいときはここも使えてみたいな場所。樽美さんが言うような、そんな「場」があるといいかもしれないですよね。
樽美
そうですよね。使えるものが「ただある」のではなくて、もうちょっと、色々な人が自然と「活用できる」方がいいよなって。あと、地域で活躍している人たちと誰かをつなぐような「場」が必要だなって。例えば「母さんの会」もちょっと気になっています。だんだんメンバーも高齢化が進んで、だんだん生産する機会が減ってきていると聞きました。本別は豆の町なのに、豆腐屋さんが1軒もなくなるっていうかもしれない。
「母さんの会」だけじゃないのですが、他にも色々なところで、同じような活動の存続問題などに心を揺さぶられる瞬間が結構あって。何かできることがないのかなって。
-もしかすると、例えば、誰かそれをいい感じで引き受ける人が見つかったりとか、それを協力隊で来た人でつないでいくとか、そういう媒介役みたいな役割やそのためのきっかけの「場」という役割もあり得ますよね。
-少し話変わりますが、樽美さんが大切にしてることってなんですか?
樽美
「迷いながら進むことを迷うな」って言う言葉が好きです。何をするか迷っててもいいなと思っていて、生きてる上で自分の人生だから迷うこともあるんですけど、生きてるからこそ悩むこともあるんだって。迷っててもいいから、進むことって大事だよなと、そういうことを自分に言い聞かせてます。
-それは大事なことですよね。そして、それを実践している。
樽美
実践ですか?どうでしょう?自分を振り返った時に、今までは、どちらかって言うと大変なことを選んでしまっている自分がいるんですよね。でも、それが「楽しそう」っていう基準でもあったりするんですけど。それでも、自分のその感覚を大切にして、ワクワクする方をいつも選ぶようにしています。それが、例え大変だとしても、自分で選んだ選択だと納得できるので。「楽しい」っていうだけで、そこが原動力になるので。
-それができる人は、強いですね。本日は、本当に素敵なお話をありがとうございます。
(写真)本別町の地域おこし協力隊のメンバーとの集合写真