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本別町歴史民俗資料館 田野 美妃館長

本別人によるほんべつストーリー

開町120周年をまもなく迎える十勝・本別(ほんべつ)町。十勝という食料自給率約1,200%の食糧基地とも呼ばれるなかで、十勝川支流の3つの川が合流する地理的な立地によって、林業が興り、軍馬の産地として栄え、豆の町としてその豊かな町づくりが行われてきた。

しかしながら、十勝最大の空襲を受けた経験や、災害も多い歴史的な背景が、現在の「福祉でまちづくり」に取り組むきっかけとなっている。平成18年(2006年)には、「福祉でまちづくり」が町民の総意で宣言される。さらに、平成29年(2017年)3月からは、“地域包括ケアキックオフ”を行い、ほんべつ町らしい次なる地域包括ケアシステムの構築に取り組んでいる。日本有数の福祉が息づいたこの町には、日本中から視察者が訪れる。

今回は、本別町歴史民俗資料館の田野館長に、ほんべつ町の魅力たっぷりな“ほんべつストーリー”を語っていただきました。

地域包括ケアキックオフの様子(地域包括ケア研究所提供)

ほんべつ町の開拓時代から開町まで

『本別町史』によると、ほんべつ町は明治2(1869)年、「ホンヘツ村」他5か村として初めて公文書に登場している。当時は先住民(アイヌ民族)が暮らしていた。

利別川、本別川、美里別川の3つの川が合流する地に集落ができ、川沿いの地域は、肥沃な大地が一面カシワの大木で覆われていたとされている(町の木はカシワ)。

十勝の開拓は、太平洋沿岸の豊頃町大津を拠点として、十勝川沿いに内陸へ進んだ。その後、明治26(1893)年秋に、長野県人・篠原相松が定住目的でほんべつ入地(現在の向陽町)、和人入植の初めとなる。続いて明治30(1897)年、勇足地区が利別農場(徳島県人)によって、仙美里地区が函館農場によって、それぞれ開拓が始まる。

明治35(1902)年に、本別村に戸長役場が開設され、まちとして正式な歴史が始まる(戸数は約450戸)。この年から数えて、2021年にほんべつは開町120年を迎える。

農業の町、林業の町として栄える

美里別川の流送(本別歴史民俗資料館所蔵)

開拓当初から、農業が主幹産業だった。一方、当時は一面の山林を開墾するために多くの木を伐採する必要があり、その伐木が木材として即収入になるため、林業も必然的に興ってきた。

本別から足寄・陸別は特に木材の町として栄えた。

特徴的だったのは、冬の間に伐木を馬そりなどで運んで川沿いに集めておき、春の雪解けで増水した川に流して下流に運ぶ“流送”という方法。貯めておいた丸太を一気に放流する様子を“鉄砲”と呼んだ。流れる丸太に職人が乗り、川を下って行く姿は勇壮だった。

十勝で最後まで流送が行われていたのは美里別川で、昭和29(1954)年まで続いた。ダムができたこと、鉄道やトラック輸送が発達したことなどから、流送は行われなくなった。

この十勝東北部3町には、川と山林という林業のための好条件が整っていて、特に3つの川が合流するほんべつ町には、製紙工場や木工場がたくさんあった。しかし、林業が隆盛したのは昭和40年代までで、その後は森林資源の減少や輸入材の増加によって次第と衰退していく。

軍馬の町・ほんべつ

ほんべつ町の歴史を語るうえで、欠かせないのが軍馬の生産地としてのほんべつ。

開拓時代から農業に馬を用いていたため、十勝ではほとんどの農家で馬を育てていた。ほんべつ町は涼しくて山地の中に平坦な土地があったため、馬の生育に適していたこともあり、明治40(1907)年に陸軍牧場が開設され、その後、軍馬補充部十勝支部となった(西仙美里・現在の北海道立農業大学校付近)。軍馬補充部があることによって、ほんべつ町は馬産に関係する農業、商工業も盛んになり、鉄道等の交通も整っていく。軍馬生産と町の発展とは深い関わりがあった。

太平洋戦争の末期には、北海道内の4支部が統廃合され、ほんべつ町の十勝支部が終戦まで残った。

本別神社より出征する軍馬(本別歴史民俗資料館所蔵)

軍馬補充部の歴史の中で、一人の英雄が本別町と密接に関係する。昭和7(1932)年ロサンゼルス・オリンピックの馬術競技の金メダリスト、バロン西(西竹一)だ。西は、男爵という身分であり、長身で鋭い眼光。日本人離れした社交性を兼ね備え、アメリカを熱狂させた日米の親善的象徴だった。そんな西が、昭和14(1939)年3月から約1年半、単身赴任で軍馬補充部十勝支部に勤務した。ほんべつに滞在中、夏休みには家族を東京から呼び寄せ、道東観光を楽しんだという。その後は、戦車隊長として赴いた硫黄島で戦死。肌身離さず持っていたという愛馬ウラヌスのたてがみが、本別町歴史民俗資料館に展示されている。

ほんべつ町は、多くの軍馬を戦地に送り出した地でもある。戦時中、国鉄・仙美里(せんびり)駅から軍馬を遠い戦地に向けて輸送した。当時馬を貨車に載せる作業をしていた駅長さんが、自らの手で戦場に送ってしまった馬たちを供養するため、昭和63(1988)年に慰霊碑を建立。碑は美里別地区に今でもひっそりと祀られている。

ほんべつ町で、馬の生産はその後も脈々と続いている。

また、ほんべつ町は、十勝で最大の空襲を受けた町でもある。間際の昭和20(1945)年7月15日、米軍機による空襲で40名の方が亡くなり、全焼家屋279戸という甚大な被害を受けた。戦後74年が過ぎ、戦争体験者は少なくなり、空襲の跡も見られなくなってきた。戦争の事実を風化させず、次の世代に命の大切さと平和の尊さを語りつぐための企画展を毎年開催している。

日本一の豆のまち

ニオ積みされる収穫前の豆(本別町広報提供)

ほんべつ町では、開拓当初から豆を栽培している。豆は寒さに強い作物であり、ほんべつは日照時間が長く、寒暖の差が大きい。これらの気象条件が、当時から適していたとされる。

大正初期から第一次世界大戦の好景気には雑穀相場が高騰し、「本別の豆の出来が世界の景気を変える」と言われた時期もあり、「豆成金」と呼ばれる人々が現れた。商店街も帯広に次ぐ賑わいだった。

豆の生産とともに、豆の加工業が発達。味噌・醤油などの醸造所も多く存在した。まちなかに豆腐屋があり、昭和の頃は子どもが近所の行きつけの豆腐屋へおつかいに行く姿が見受けられた。

その後、食生活の変化や外国産の安価な原料が出回ったためか、全国への流通を考えると北海道は不利だったのか、町内の味噌・醤油の醸造所は減ってしまった。

「豆のまち」としての顔が伺えるものとして、開町50年(昭和26年)の記念式典時に、味噌醤油展示会を開催している写真と記録が残っている。

現在、ほんべつ町民は「日本一の豆のまち」のプライドを持っている。中生光黒豆という本別産の品種を「キレイマメ」としてブランド化する取り組みや、豆のまちにふさわしく、日本で一番(といっても過言ではないくらい)地域一体となって開催される壮大な豆まきイベント「豆まかナイト」があり、若者たちが中心となって「豆のまち」を盛り上げている。

必然と芽生えた福祉でまちづくり

ほんべつ町は、ボランティアのまちでもある。その背景には、度重なる災害から生まれた助け合い・支え合いの精神があると思われる。市街地が3つの川の合流点にあるため、何度も大雨による水害に見舞われた。平成12(2000)年には、口蹄疫により畜産が壊滅的な被害を受けた。それでも、地域のために町民ボランティアがいち早く動き出した。人に対する思いやりと、開拓時代から受け継がれてきた不屈の精神が、町民力となっている。

インタビュアー
地域包括ケア研究所 藤井 雅巳

抽象的に捉えられがちな「地域包括ケアシステム」を、実践を通して具現化するシンクタンク「地域包括ケア研究所」の代表理事。2017年より本別町に頻繁に足を運び、町の魅力として、「人」にフォーカスするWebメディア「HOTほんべつ」を企画。

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