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高橋町長

ほんべつ町が育てたリーダー。「福祉でまちづくり」にかける想い。

ほんべつとともに育った幼少時代

-高橋町長はほんべつ町長になってどのくらいになりますか?

6期目で、22年町長を務めています。

-ほんべつ町に移住して何代目になりますか?

私の代で3代目で、大正時代に移住してきているので、90年近くになりますね。既にほんべつ町は開町しています。祖父は宮城県鳴子温泉の鬼首(おにこうべ)出身で、祖母も同じところの出身です。祖父は高橋の本家だったのですが、(祖父の)兄が時の大戦で戦死して、次男坊の祖父が家督を継がなければならなくなってしまった。そのため、見合い結婚をさせられるということで、当時付き合っていた祖母とともに”北海道ロマン”ということで、ほんべつまでやってきたそうだ。まさに、愛の逃避行ですね(笑)。

-高橋家は移住当時は何をされていたのですか?

祖父はもともと検察庁の職員だった。その後、読み書き算盤くらいはできたので、ほんべつに移住してきてから王子製紙の下請けの木材業者の土場(流送で輸送した木材の水揚げ場)で番頭をしていた。今の「愛の架け橋」の少し下流に実家があって、その周辺に土場があった。実家と併設された長屋に38人の職人を養っていたそうだ。

-町長はどのような少年時代を過ごされたのですか?

もの心ついたころから、でっかい家に、大きな庭がありました。近所には子供が沢山いて、子供たちと朝から晩まで一緒に遊んでいました。隣に大きな農家のお宅があって、馬がいたり、米作りをしていたり、なんでもそこにありましたよね。みんなでかまくらを作ったり、相撲をしたり、かくれんぼしたり、ツリーハウス作ったり、何でもできた。今でいうアウトドアから、川遊びから、スキーから何でもできる最高の環境に育てられました。だから、遊びを通して、何でも経験してきたのが少年時代。兄弟は、兄・姉・弟・妹がいて自分は真ん中の5人兄弟だったので、すべての兄弟がいたので、お兄さんが欲しいとか、妹が欲しいとかそういうのはなかったですね(笑)。

-当時のほんべつ町はどんな町でしたか?

当時は、林業の町として栄えていて、木材業者が本当に沢山あった。木工所だけで12か所もあった。そのほか、木を切る工場、加工する工場など様々。そして、木材の輸送のために国鉄が開通していました。ほんべつに「山中木工場」という国内有数の木材業者があり、ここの木材は東京でセリにかけられずに直接取引されるくらい山中ブランドは優秀な製材を生産していた。大変賑わいのある人やモノが行き交う町だったと記憶しています。

政治家として生きていくことを選択

-町長はどんな社会人としてのスタートを?

社会人になって国鉄に入社し、はじめは池田駅に配属になった。その後、内部資格試験を取って、駅の内勤職になり、仙美里駅での勤務を経て最後は本別駅に勤めていた。31歳からは4年間町議を兼職していました。その後兼職が禁止となり、昭和61年3月一杯で、当時35歳のときに国鉄職員を辞職し、議員として生きていく道を選択した。20万円の給与をぶん投げて、手取り5万円の町議を選んだ(笑)。

-なぜ議員をえらんだのですか?

なぜかはわからないのです(笑)。ただ、「自分は政治の道に入った」、と覚悟を決めていた。はじめ町議に押していただいたとき、先輩方に町議の候補はいたけれども、色々事情があって出馬できなくなった。それから、様々な方に説得に合って。でも、一番反対していたのは奥さん(笑)。ただ、やるからには町議になって、町長を目指していこうという想いがその当時からあった。

-その時から町長になろうと?

町議になったのは31歳で、2期目の38歳のときに、当時の町長がお盆にゴルフ場で亡くなってしまった。そこで急遽、町長に出馬しようかということになった。同級生からも押されて、出馬することになったのだけれども、当時の助役が弔い合戦で出馬することになっていた。だから、無謀な挑戦は止めておけと、身内から止められた。ただ、それまでのほんべつ町は財力と肩書がなければ町長にはとてもなれない歴史があった。「そんなことはおかしいだろう」という反骨精神もあり挑戦した。はじめは順調に選挙戦を戦ったが、戦略も準備も十分でなく、最終的には検討むなしく僅差でやぶれることになった。

-善戦されたのですね。

自分は一石を投じたと思っていたが、兄弟からは、「お前を命をかけて応援していた人間が沢山いる。お前が満足してどうするんだ」と、叱責された。奥さんは、当時役場に勤めていたが、町長に出馬する朝に辞表を書いて退職してもらっていた。それだけの想いと家族の人生も背負って戦ってきたんだ、ということを思い知らされた。だから、「本当に申し訳ないことをした。今度チャンスがきたら恩返ししなければならない」と、その時心に誓ったものです。

-その後どのような曲折を経て町長になられたのですか?

町長選で落選後、8年間定職も持たずに、何でもやって命をつないでいった。朝3時に起きて農家の手伝いをしたり、建設会社の春芝を買いに行ったり、道議の秘書をやったり、何でもやった。自由人のように生きてしまった。「男はロマンで生きていけるが、女は不満ばっかりだから」とは、妻の口癖だった。時には町内会費を払えないようなこともあった。妻は必至に頑張ってくれた。そして、8年間の在野活動が実って、1997年に町長に初当選した。

「福祉でまちづくり」にかける思い

-町長となってまず何に取り組まれたのでしょうか?

もっとほんべつを民主主義の風通しのよい町にしなければならないという想いをもっていた。

議員時代にこんなことがあった。ほんべつに障碍者の授産施設を誘致しようという動きがあった。ただ、ある理事者の心の無い発言がその動きをとめてしまったことがあった。「福祉の心をもって、みんなで支え合って生きていくのが町でないのか?」。そんな思いが強くあって、涙をのんで悔しい思いをした。だから、自分にチャンスが訪れれば、福祉に力を入れていくことを心に誓っていた。そして、2000年に「太陽の丘の福祉ゾーン」を開設した。実は、町長当選前から、後に助役をやってくれた粂田さん、砂原さんらと一緒に構想を練っていた。2000年の介護保険スタートとともに、病院(医療)、ケアセンター(福祉・保険)、老人保健施設(介護)の機能を廊下だけでつないだ一体型施設を日本で初めて開設した。この時、ほんべつの「福祉でまちづくり」がはじまった。想いがなければ町が作れない。自治会活動をはじめ、ボランティアの皆さんなどの活動が基礎となり、町民が自分たちで考え、参加するまちづくりの基礎ができていった。

福祉でまちづくりの見学会に来た教育者との対談

-その他にはどのようなことに取り組みましたか?

実は、息子からこんなことを言われたことがあります。「福祉のまちづくり」というのは、ある意味当然。でも、一つだけお父さんを褒められるとすれば、「日本一の豆の町」を広めたことかな、と。ほんべつの豆はもともと高い評価を得ているのだけれども、今まではだれもそんなことを言わなかった。もしかすると、「豆の町」を推進する基礎となったのは、農家が遊び場だったという経験からかもしれない。昔は、ビート畑の収穫を月あかりの下で、競争したりした。馬糞を畑にまくことをいかに工夫してやるかなどを考えて、肥料をまく道具を一緒に考えて作ったりもした。本当に何でも遊びながら学んできた。明るいうちに家に帰ったことなどなかった。でも、これらは決して仕事ではなく、子供時代の遊びだったからこそできた。そして、遊びながら褒められた。

このような農家の遊びのフィールドがあって、これらを友達や兄弟と一緒にやってきた経験が福祉でまちづくりであり、豆の町につながったのですね。

次世代につないでいきたい人を大切にする想い

-町長が大切にしている価値観はなんでしょうか。

一番大切なことは「安心して暮らせること」。そして、みんな仲良く平和に暮らせることが大切。実は、母親から戦争時代の話をよく聞かされた。それは、苦労どころの話ではない。一度だけこんなことを母親に言ってしまったことがある。「どうして、大人たちは戦争が『だめだ』と声を上げられなかったのか?反対することができなかったのか。みんなが声を上げていればこんなに苦労はしなかったのではないか」。とても、率直な子供の意見だった。その時、母親は一言も何も言わず何とも言えない苦々しい悲しげな表情をしていた。その時の母親は一生忘れられない。「とても大変なことを言ってしまった」ということをその瞬間に悟った。人を大切にすることがどれだけ大切なことか。だから、みんな家族でつながっているのだから、互いを大切にして、みんなで補い合っていい町を目指して暮らしていこう、と。戦後72年がすでに経つが、私たちはものすごい歴史を乗り越えてきている。それを忘れてはならない。

地域包括ケアイベントのBBQの様子

-町長とはどんな人でしょうか?

人が大好き。誰かから色々な影響をもらって生きている。ゴルフやっていても、ギャラリーがいるといつもナイスショットが打てる(笑)。だから、沢山の人からエネルギーをもらって生きている人間だと思う。それが生まれた時から自分のDNAに刻み込まれているのではないか。おふくろに一度こんなことを言われた。「代々の先祖が、みんながお前のことを応援しているだよ」、と。決して、一人で生きているわけではない。先祖も含めてみんなの魂や思いを引き受けて、今を生きている。先祖の気持ちや魂をつないで生きている。だからこの世に生を受けたからには、このような想いを次の世代につないで生きていくことが私の使命であり、そんな生き方をしているのが自分だと考えている。

町長の人柄や想いがとても伝わってきました。そして、なぜ「福祉でまちづくり」に取り組まれてきたのか、その背景もとてもよくわかりました。これからのほんべつにますます期待しています。

インタビュアー
地域包括ケア研究所 藤井 雅巳

抽象的に捉えられがちな「地域包括ケアシステム」を、実践を通して具現化するシンクタンク「地域包括ケア研究所」の代表理事。2017年より本別町に頻繁に足を運び、町の魅力として、「人」にフォーカスするWebメディア「HOTほんべつ」を企画。

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