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佐々木町長

本別町に育てられたリーダー。「スイッチ」をONにして、地域を次世代につなげていく。

 

佐々木 基裕(ささき もとひろ)

1959年足寄町の農家の長男として生まれ、足寄高校を卒業後、1978年に本別町役場に入職。企画・総務、農林も経験し、その後教育畑を経て2018年教育長に就任。「従来の考え方にとらわれず、若い世代の声を取り入れ、新たな視点、発想を町づくりに生かしていく」と対話を重ねていくスタイルを役場時代から続けてきた。

足寄で家業の農家を継ごうと思っていた。流されて本別町役場勤めに。

-佐々木町長の幼少期についてお伺いできますでしょうか?

足寄町の稲牛(いなうし)という山奥の方に集落があるんですけど、そこで生まれて中学校までは足寄で育ちました。祖父が、稲牛に入って農業を始めて、そこで父親が生まれ、分家として親父はおじいちゃんから土地買ってもらい、農家として生計を立てて、その長男坊として生まれました。

高校3年生までは、親父が「農家やってくれ」という想いが強かったので、高3の夏まで本当に農家やろうと思って、足寄高校卒業して、農業大学校さんで2年間ちょっと農業の勉強しながら実際に家業である農業を継ごうと思ってたんです。

-それが、どうして役場に入られることになったのですか。

高校3年のときに、十勝管内の町村の採用試験があり、友達も試験を受けるということだったので、「まあ試しに受けてみないかい」と誘われ、比較的軽い気持ちで、これも経験のうちだなって。周囲の皆は、役場の公務員になりたいものから、大学進学したいものなどで勉強一生懸命やってるから、俺もなんか、試験ぐらい受けてみるかって。そしたら、たまたま受かってしまって、十勝管内だと採用しているのがたまたま近くだと本別町しかなくて。それで、面接受けたら合格してしまったというのがきっかけです。

-軽い気持ちですか(笑)?

当初、親父が反対していたので。それで、母親が「2年間社会勉強するのもいいんじゃない」って、親父に話をしてくれて。せっかく本別にお世話になるんだったら、社会勉強に行ってきなよって。

ところが、その2年後に、母親が当時は珍しい種類のリンパにできる珍しい癌になり、あっという間に半年で亡くなってしまった。それで、俺と親父で2人だと農家できないね、ということで、親父も諦めて。じゃあ、「そのまま役場にお世話になったら」っていうことで、今があるんですね。人生わからないですよね、どうなるか。

-そうなんですね。色々な偶然が重なってですね。それが町長にまでなられることになるとは。

流されていたら。小さい時から、農家が嫌いなわけではないし、将来は「農家やる」って決めてましたからね。うちは、面積が少なかったもんですから、畜産関係も入れて、農家をやるって夢を描いてたんで。まさかね、こういうふうになろうとか。

ただ、当時農家やってる人は農業高校、ここだと帯広農高さんにいくのが一般的だったんだけど、うちの親父は普通科に行け、と。農業は、俺も教えられるし、まあ農大とかね、そういう所で教えてもらうことができる。まわりの人も経営者が一杯いる。でも18歳になったときに、一般常識などが今後の農業にとっては必要だって、農に限らず幅広い知識を高校では学びなさいって。そういうことで、普通科に行くことになりました。

-でもすごいバランス感覚というか、そういうその価値観をしっかり広く受け入れられるお父様だったんですね。

 

一つ一つのことに丁寧に向き合ってきた役場での仕事。当初から「対話」を大切にしてきた。

-役場入られてからのキャリアって、どんな形でスタートしたんですか?

当初は企画室っていう小さい室だったんですけども、今で言う企画振興課に入り、統計や企画から広報までぐるっと回って10年くらいいました。その後、税務課で(税を)賦課する担当になりました。

そこで、農家さんの納税の仕組みを大きく変える取り組みを進めました。「標準」形式というどんぶり勘定の仕組みから、自分で収支をきちっと出した中で、税金を納めてもらう「白色収支計算」形式に全部移行させたんですね。今でも記憶していますけど、当時、農家の奥さん方が大体税金の計算をしていたので、減価償却の仕方など申告書の記載方法など十何ケ所かの自治会館を全部回って、皆さんにご理解いただきながら、「収支計算」形式に全部移行させたんですよ。

-簡単に言われましたけど、税務の申告の仕方を変えた事ですよね。一般的には抵抗も出るような場面だと思いますが、そのようなことはなかったですか。

申告の仕方を変えることで、税が重くなる方とそうでない方と、丁度半々くらいなんですよ。税金が多くかかる農家さんと、かからない農家さんで制度を変えるため、こっちが反対しても、こっち側が賛成なんですよね。やっぱり税金っていうのは公正で公平。そのような信念をもって丁寧に「対話」しながら説明してきました。

対話を大切にしてきた想いに力を込める

 

 

-税務でも、町を回って町民の方と対話をしてこられたのですね。その後は、どの部署に行かれたのですか?

総務課ですね。総務課では、職員厚生係をやっていましたけど、当時の職員は、ある意味で住民の方よりもわがままですよね(笑)。結構苦労しながら総務課時代も過ごしました。その後、農政ですね。農政でも、色々なことがありましたけど、農業振興計画の見直しなどを行いました。

-なるほど。本当に様々な部署をご経験されているのですね。

 

はじめは門外漢だと思っていた教育委員会。それでも、いつも同じスタンスで、丁寧に的確に迅速に仕事をして、結果を出してきた。

その後、教育委員会に行くことになりました。教育長時代まで含めると約12年ですね。主に「学校教育」に関わりました。でも「学校教育」に対しての、想いみたいなものって、当初は全く無かったんですよ。私、一回も庁舎から出たことが無かったので「教育」なんて、私自身が高等教育受けてないので、教育委員会では燃えないのかなって思っていました(笑)。ただ、これは、公務員の「定め」ですからね。最初は全く分からなかったですが、それからですからね。

-はじめはそういう経緯であるとのことですが、その後「情熱」をもって関わっていかれるようになる中で、どのようなことをされて来たのですか?

やっぱり基本的なスタンスは全く変わらないんだよね。それが、町民の皆さん相手の業務なのか、それともその主体が児童や生徒さんお子さんなのか。基本的なのは、相手は人。ただ、当時の小中学生の学力が低いっていうことを、当時の教育長さんから言われて、まあなんとか子供たちの学力をあげたいっていうのが、はじめの率直な気持ち。なんとかそれで、今は中学校はもう全国上回るぐらいまで行っています。

-例えばどういう取り組みを教育委員会としてされたんですか?

1番最初にやったのは、「学力向上検討委員会」の立ち上げです。学校の先生方を集め、町教育委員会として、積極的に関わるのは当然ですが「こういう風にして行きたい」という考えを伝えた。あの頃は「改善化計画」も年2回しかやってなかったので、学力調査をしたらまず自校採点し事実を把握・評価し、そして計画策定。全国で結果の公表もされるので、そこで本別町がどのぐらい差がついているのか?を検証する。そして、またプラン(計画)を出す。3学期になったら一年間の振り返りをする。「改善化計画」は2回やればいいっていうものではなく、私は最低3回、出来たら4回やってローリングさせながら子供達と向き合っていく。そして、各学校がそれぞれ改善化計画を作るので、町としても計画を策定し、違う視点で指標を置いていく。

指導官と言って、校長を退職された方に本別町としての改善化計画を策定してもらい、それと学校の計画とのすり合わせを行っていくと言う取り組みをしたんですよね。

-なるほど。今すごい簡単におっしゃいましたけど、なかなかできるものじゃないですよね。普段やってるよりも、高速回転でやるべきことを決めてやっていくっていうのは、何においても大事なことだと思うんですけど、それをやって来られたってことですよね。

教育長時代の本別高校「とかち創生学」の最終発表の様子

 

 

-役場の当時担当としての想いがある中で、なかなかそれに一緒に乗っかってくれない方って、やっぱり結構いらっしゃいますよね。そういう時にどうされるんですか?

私は、直接そういう人たちを理解を求めるためのこちらサイドからのPRっていうのは今まで極力避けてきたんですよね。要は、私がやっている評価というのは、もちろん子供たちや町民の皆さんがする訳ですが、私のやってる姿を見ていただいて、評価してもらう。そこに、暗に私の「想い」が込められているわけですから。だから、自分で「こんな風にやって来ました」っていう自己表現って、今まであまりしてこなかった。それでも、今回の町長選は、「私はこの町を何とかしたい」という思いが湧き上がってきて。自分でもね、驚いてます(笑)

-それでは、今まではそうあまりそういうタイプじゃなかったんですね。やるべき事をしっかり誰よりもきっちりこなして行くと言うスタイル。

仕事って、与えられた仕事だけだと面白くないでしょ。公務員40年もやって、与えられたことをやることが全てで、失敗したり、怒られたりだけで。それよりも自分からね、「こうしたい」って、要するに1つでも2つでも成功して「もの」になれば、「公務員の生活も悪くなかった」となるでしょう。それは高校3年時のことが背景にあったのかな。自分も農家になりたかったし、親父も農家だったので、流されて公務員になってしまった段階で、「これでいいのか」ってずっと思っていて、だから何かを残したいという自分に対しての想いがずっとあった。

だから、仕事は楽しいですよ。一杯失敗もしてきたけどね。でも、誰しも失敗なんてしますからね。

 

「スイッチ」が入った町長選への出馬。町民が背中を押してくれた。

-なるほど。ある意味楽しく本気で役場人生を送られて来られて、町長選に出ようと思われたきっかけは何だったんですか?

それはね、強力に私を押してくれた人がいたからですよ。「これからの本別をあなたに託したい。」「あなたしか、私たちにはいない。」、そんな言葉を受けて、全くそういう気持ちがなかったのですが、どっかでスイッチが入ってしまいました。

5月12日に1回目の教育長の任期切れの時も、前高橋町長さんから2期目やれって言われても、もう60歳になって仕事の一線から引こうと思ってたんで、一度はお断りしたんですよね。それでも、「もう一回やってくれ」って言われて、悩んで最終的にはお受けしたのですが、もうその段階で「教育長で終わりだ」って思ってましたし。今も足寄に農地があるので、鶏でも飼って暮らそうかなっていう思いだったので。だから最初からね、町長選に出るなんて全く考えてない。

それが、6月末に役場OBの方々や、ご婦人の団体とかから、あらためて要請があって、多分どっかでスイッチが入ってしまって。それで、7月に入ってから(教育長としての)辞表を提出して、決めました。

-「スイッチが入ってしまった」という言い方をされましたけど、入った感覚っていうのは自分でも不思議な感じだったんですか?

そうなんだよね。「あなたしかいないでしょ」って言われた時に、本別に住まわせてもらって、皆さんに良くしてもらって、今の自分があるんだって。出身でもないけど、他所から来た私のことを見てくれていて、地域の方々がそんな風に思ってくれているのであれば、最後ご奉仕しないとなって(心が)揺れているうちにスイッチが入ったんだと思います。

今でも、どこで入ったかは分からないのですね。間違いなく6月末まではそういうスイッチがまだ入ってないから。

-そうなんですね。びっくりしました。ずっと誰かの為に、役場や教育委員会で働いて来られて、それを見ている方がいて、最後にそれを見て来られた方が、佐々木町長に町を託したいっていう想いに、きっとなったんですね。

本別高校「とかち創生学」の模擬議会での議場での様子

 

 

人口減少の中で町の未来を描く。地域経済の活性化への想い。

-今までのお話伺ったら、もうやるからにはきっとやりきられる方だと思うのですが、今考えていらっしゃる力を入れたいことを、差し支えないところで伺えますか。

やっぱり、地域経済の活性化をしたいですよね。町は人口減少で人は減ってきました。これは、日本全国そうなので、ある程度やむを得ない。それで、コンパクトのまちづくりをしていく上で、障がいとなるものは配慮しながらも、いまの経済力をそのまま維持できれば、1人当たりの収入は増えて行きますよね、論理上は。だけども、そうはならない障がいが一杯あるので、そこをきちっと改善してきましょうと。

例えば、農家さんでも、スマート農業などで大規模にやるのはもちろんいいと思います。本別町で近い将来に、農家さんの戸数は100戸切ります。さらに減っていくと私は予想しているのですが、そこまで減ってしまったら、農村コミュニティもなくなりますよね。だから、スマート農業をやる方も育て、一方、小さい規模であってもしっかり農家で飯が食える、そういう形態を育成して行くことができれば、就農者も増え農村コミュニティも保たれると考えています。

市街地も、集約したいと思ってるけど、これだけ広がったら、空き地が目立つようになりますよね。そこは、行政だけで出来るものではないので、土地の所有者の方にもお願いして、例えば取り壊してもらうなど、何とかして、景観を維持する。

本別公園であれば、本別公園の入込客増を図りながら、滞在型の公園にしたい。帰りには本別の特産品である「豆」をお土産として買ってもらって、持ち帰っていただく。それで、「よかったね。来年もう一回本別公園行こうか」ってリピーターになっていただく。そのための満足してもらえるような環境も整え、そこからも経済活性化につなげる。

本別町は、20代から30代の女性の方が年代層として極端に少ないので、そのような方に向けて働く機会なども含め、何が必要かを考えていく。

これらを複合的に組み合わせていくことで、人口減少の幅を抑えつつも、一人一人が豊かな生活を送れる町を目指していく。このあたりを、きちんと大事にしてあげたい。

-今町長言われたような、本当に的確に必要なところに必要なリソースを投下して行くっていう考え方が、とても現実的であり、かつ効果的であると改めて感じました。

 

町内の「熱」をもった若者とつくる町づくり。

夢はあるんだよね。北海道横断自動車道の本別ICは、ジャンクションになっていますよね。オホーツク圏、釧路圏それから札幌圏がつながって、十勝港へも広がっていく。まさしくハブなので、ぜひとも中間で物流拠点などを目指し、物流拠点と第二次加工品を育てていきたい。本別の「豆」は、今は第一次品で加工部門が少ないので、そこに力を入れて行けば、もっと本別町が生み出す付加価値が増え、本別の活性化につながっていく。

現状分析とそれを踏まえた将来の見立てが必要で、中長期的にも物事を考え、本別の将来を絵がいていかないとならないと思っています。そうでなければ、後世につないでいくことすらできないですから。未来の若者につながるような行政をやりながら、今の現状の足元の課題についてももちろん向き合っていく。「将来に向けた計画」と「今の課題に向き合っていく計画」と、この2本立てが必要ではないかと思っています。

-本当にそう思います。近視眼的な視点だけではなく、大きな視野も必要ですよね。町長から見て、本別ってどんな町ですか?

本別ですか?どこにでもある、小さな村的な町だと思いますよ、はい。

-それは「外形的」には、ってことですよね。

そうです。要は、全国的なPRなどは大事なんだけども、実際にこの小さな町に住む人々が幸福感を持ち、満足感を高めて行けるような、そういう町であることが大事だと思うんですよ。

今でも、本別では皆さんが熱い心をもって、いろんなことやってるから、すでにそういう側面は備わりつつある。よく「本別ってあまり知られていない」って町民の皆さんにも言われるのですが、そこばっかりだと片手落ちですよね。外へのPRも大事。でも、今の本別の皆さんがいろんなことを模索しながら、「本別らしさ」を創り上げていく。例えば、池田圭吾くんがホテル建てるとか、前田茂雄さんの十勝ポップコーンや、KOYA lab.の岡崎さん、と色々な若い人たちが、すでにすごい活躍している。だから、本別は今後このような既に活躍している皆さんと、そういう若い世代と一緒に、まちづくりを考えながらして行きたい。そこが、今後の町作りで大きなポイントだと思います。

-なるほど。「本別らしさ」は中から生まれてくるのですね。確かに、若い世代の方ですごい元気があって、いろんなことを考え、実行までする方がすごく多いなっていうのは感じます。そういう地域の土壌を、きっとこれまでの世代の方々が、作ってこられたんですよね、きっと。

自分らでなんとかしようっていう想いの皆さんが多いと思いますよ。行政がどうとか、どこの団体がっていうよりも、自分たちが考えて、自分から行動を起こさなければ、この町はね、将来に向かって変わっていかない。

-本当に、ありがとうございます。ますます、これからの本別町を楽しみにしております。

町長室での佐々木町長

 

 

HOTほんべつの公式YouTubeにて、佐々木町長の魅力について、さらに深ぼらせていただいています。こちらもぜひご覧ください👇

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インタビュアー
地域包括ケア研究所 藤井 雅巳

抽象的に捉えられがちな「地域包括ケアシステム」を、実践を通して具現化するシンクタンク「地域包括ケア研究所」の代表理事。2017年より本別町に頻繁に足を運び、町の魅力として、「人」にフォーカスするWebメディア「HOTほんべつ」を企画。

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